普通にはめない
- 5 日前
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現在4歳の我が子はCFC症候群という難病である。
難病指定されているのだが、正直病気という感じではない。
いわゆる医療的ケア児でもない今、彼はただ、発達が遅く、1歳児が家に居続けている感じだ。
今のところ命に別状がない状況の我が子は、難病どころか家族の中でもいちばん元気だ。
歩けないし会話になるような言葉は発さない。
私は4年間、とにかく自分でなんでもできるようになって欲しいと思い、接してきた。
歩行はもちろん、自分で食べられるようになる、歯を磨けるようになる、服を着替えられるようになる、トイレに行けるようになる、文字や数字を覚える、会話ができるようになる。
これら全て、大多数の人間ができることである、いわゆる普通のこと。
けれど最近、我が子を見ていると感じるのだが、みんなよりどう考えても遅れているのに、発達支援センターでも堂々と歩かず、堂々と喋らず、堂々と癇癪を起こし、堂々と誰も笑わないようなことで爆笑している。
周りを気にせず自分のペースで、喜怒哀楽を示す。こうやって生きていけることは、とても幸せなことではないか。その上で、人に愛され続けることができれば良い。
「◯◯ちゃんはできていたわよ」「みんなはそんなことしてないよ」「みんなもやってるのだからあなたも頑張りなさい」と、周りと比較することをベースに私も育った。
大人は、周りの目を気にしすぎて、はたまたいわゆる「これが普通だよね」のレールに乗ろうとしている人が多い。私もどこかでそうだ。そして鬱病からの自殺はその最たるものだと思う。
自分の潜在意識を封じて、周りに合わせて生きる。
そこまでして周り(社会)に合わせて、普通を目指し生きることは重要であろうか。
私は我が子を見て、最近よりいっそう「そうは思わない」という気持ちが加速している。
世の中は、なぜかマルチタスクが当たり前にできることを求めている。
私も鬱になるまでは独りでも生きて行けるよう頑張って生きてきた。
そして、独りでも生きていけるようような仕組みや便利なツールもたくさん開発され続けている。
しかし、どうしたって独りでは「生きていない」のだ。
24時間誰かに支えられて生きているのだ。衣食住。それらは全て自分で作ったものではない。自分で購入できたとか、そんなレベルで傲慢になってはいけない。何千何万何億の人の努力、そして何千何万何億の命のおかげなのだ。全ては繋がっていて、皆その中の一粒なのだ。
独りで生きられるように強くなろうとすることより、自分らしい一面を伸び伸びと活かし、足りない部分は誰かに助けてもらって、支え合って生きていく、愛の在る社会。
理想論と言われても、それが理想だと思うから私はそのように行動していきたい。
我が子の存在により、より一層そんな風に感じられるようになった。
我が子が周りを愛し、そして愛され暮らしていくために、これから自分がどのように行動していくのか、考え行動し続ける。
「普通にはめない」
極端な話、我が子が大人になってトイレに1人で行けるようになることを引き換えに、自分の好きや得意を見つけることができないのだとしたら、全然トイレに1人で行けるようにならなくて良いと思っている。(もちんろんトイレに行けるように育てるが。笑)
これから育っていく子供達はもちろん、
今生きている大人も、何かを我慢して人生を生きていないか?本当にやりたいことはできているのか?そんなことを問い続けていきたい。
その活動の一つが、「大人の肖像写真」であり、「ラジオみんなのモーション」なのだと思う。
普通じゃないってかっこいいのだ。
そして普通なんてものは本来無いのだ。
SHAR

我が子4歳の肖像写真



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