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いい映画

ここのところ、

時間を持て余しているわけでもない中、

なぜか映画を

映画館及び、HULUで見漁っていたのだが、

今日見た映画にたどり着いたのは偶然ではない気がしてしまう。

事実に基づいた物語である。

見終わった後、とても嬉しかった。

※映画ネタバレの詳しい内容は、別のブログで書こうと思うので、

映画が気になる方は読み進めてほしい。

私は、核家族に育った。1981年生まれの日本人にはごく普通の日本の核家族。

高校生でおじいちゃんが死んだ時、

初めて死んでいる人を見たけれど

悲しかった記憶はない。

大学生でおばあちゃんが死んだ時、

今となっては信じられないが、お葬式にすら行かなかった。

27歳、父が死んだ。

危篤の知らせを聞いてから、病院にたどり着く間に

父は死んだ。

病院に着くまでの間にもすでにリアルな実感から涙が止まらず、

病院のベットに横たわってる父と、その傍らで泣いている母と姉の姿を見て

こんなことが自分の家族に起こりうるのかと、遠くから見ている自分がいるものの

リアルに押し寄せてくる悲しみの実感に、涙が止まらない。

私は遅い反抗期で、お見舞いに行くものの、ほとんど父との会話をしようとしなかった。

そんな私が、

お通夜の前に一度うちに連れて帰った父の横に度々座り込んで、

ベタベタと肌を触る。

どんどん冷たく、そして硬くなっていく父の姿を

肌で感じていた。

余命宣告もされていたので、

残った家族3人とも覚悟もできていたし、笑える余力もあったが、

父が死んだあの日と、火葬の瞬間は、

大切な人を失う、リアルな悲しみに、圧倒された。

私にとって、

家族は、父・母・姉、の3人で、

この3人の誰かを失うことが、こんなにも悲しいことなんだと思い知った。

父が死んでから、

「人は死ぬものだ。」

死に対してただドライに考えるようになった。

人は絶対に死ぬ。

ぽっくり死ぬこともある。

長く苦しんで死ぬこともある。

不慮の事故で死ぬこともある。

殺される人もいる。

餓死する人もいる。

だが、どんな死も、死は死だ。

その人の死は、死んだその人のものであり、生きている人のものではない。

ものすごくふさぎ込んだり、

そのせいで誰かを恨んだり、

そのせいで復讐に走ったり、

そんなことをするのは、

なんとももったいない生き方ではないのか。

テレビの、家族に先立たれた人たちのそういった姿を見て、

そうんな風に思っていた。

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この映画を見て、改めて気付かされ、嬉しかったのは、

人は、大切な誰かが生きていることをとても嬉しいと感じられる生き物なのだと

改めて思ったこと。

そして、大切な人は、血縁を超えて何人いてもいいということ。

悲しむのも人。

楽しむのも人。

日本だけの話ではないようだが、

今、日本人(特に都市)は、一人一人がとても孤立している。

そして非常に個人主義が進んでいる。

何か起きると誰かのせい。

何かが悪い。

自分は間違っていない。

私も気がつけば、言動はとてもドライな人間に仕上がっている。

ただその自分の言動に

疑問や違和感、嫌悪感は感じている。

正しい生き方はなんなのか。

人それぞれ、その人が歩むべき道があると思う。

何か失うことを怖がり過ぎたり、何かを恨んだり、何かを憎んだり、何かをを陥れようとしたり、

そういうことに時間を使ってる場合ではない。

私たちは、

生きている大切な人たちと、

悲しくも苦しくも、笑って生きていく能力のある希少な生き物である。

この映画の主人公も、

推測ではあるが1981年生まれであるとしている。

同じ時代に別の世界で生まれた子供の人生を、時系列を追って疑似体験した。

隣の国や地球の裏側で起きていることでも、

自分とつながることはある。

今ある常識や固定概念の対局を考える癖を。

そして

誰かを喜ばせるために思いついた素敵なアイディアが突拍子もなかったとしても、

もしくは、ありふれた誰もが知っていることだったとしても、

そのアイディアを信じること。

私はそうやって生きて、

より多くの人と幸せになりたい。

そんなことを改めて思わせてくれる映画でした。

今でも父を思い出して泣くことがある。

でもそれは、悲しいのではなく、

感謝の気持ちが溢れるからだ。

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作品のレビューはまた改めてたっぷり。

とにかく、主役の子供時代を演じる子が魅力的で、

一気に映像に引き込まれる。

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